舟が川を切る音だけが、細く続いていた。 エンジンは止まり、パドルの水音が、やわらかく反響する。
アマゾン。 ここは「音が多い場所」だと聞いていた。 鳥の声、虫の羽音、遠くの猿の叫び。
けれど、いちばん心に残ったのは沈黙だった。
沈黙が、こちらを見ている。」
森は、近い。 目の前にあるのに、どこか距離がある。 それは、人の都合で近づけない距離だ。
葉の一枚一枚が、光を受け止めている。 光はまっすぐ落ちてこない。 何層もの緑に砕かれて、細い糸になって降りてくる。
だから、森の中の時間はゆっくりだ。 時計が進むのではなく、湿度が進む。
ガイドが指を立てて、静かに笑った。 「聞いて。」
その瞬間、気づく。 こちらが“音”だと思っていたものは、ほとんど自分の中の雑音だった。
森は、確かに鳴っている。 でもそれは、騒がしさではない。 ひとつひとつが、意味のある距離で鳴っている。
遠くの鳥が、ひと声だけ鳴く。 それに返事するように、別の方向から別の声。 そこに、余計な言葉がない。
人間の世界の会話は、時々、言葉が多い。 埋めるために喋り、勝つために喋り、怖さを隠すために喋る。
アマゾンは、逆だ。 必要なときだけ、鳴る。
沈黙は“満ちている”。」
夕方、空の色が変わる前に、空気が変わる。 温度が少し落ち、匂いが深くなる。 それは雨の前触れではなく、森の合図だ。
ほんの少しの風が通る。 葉が擦れて、小さな音が連鎖する。 まるで森が、呼吸を整えるように。
そしてまた、沈黙が戻る。
私はその沈黙の中で、なにかを決めた。 旅から帰ったら、少しだけ言葉を減らそう。 もっと、聞こう。
森は、教えるのではなく、ただ存在している。 それが、いちばん強い。
舟は、ゆっくり岸へ戻る。 水面には、空が映る。 その空の奥に、まだ見えない無数の道がある気がした。